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子どもの日

何度撮影しても。。。神々しく輝いてしまいました^^;

写真.JPG
本日は「こどもの日」

悲しい哉。。。
誰も気づかないのでコラムで御紹介。

『鯉の滝登り』を立体化した白薩摩花器。

こどもの日にちなんで中央に配置してあります。
本日御来店された方、、、「いいわね〜。鯛?」とは聞かれても、まだ、どなたも「こどもの日だから鯉ね!」と仰った方がおらず。。。

鯉(こい)は出世魚として象徴されております。
これは中国の古いお話からきております。

滝を登るあらゆる魚の中で、鯉だけが滝を登り、そして天に昇り「龍」となったというお話。
どこかで耳にされたこともあるかと思います。

鯉の髭(ヒゲ)は龍になった時も龍の髭として描かれており、大きく口を開けて上(天)を目指す姿は掛け軸などに良くみられます。

このお話から鯉は出世魚とされて、こどもの日に「鯉のぼり」が飾られるようになったのです。



と、いう事で今朝から配置を変えてドーンと飾ってあります。

こちらの花器の全体を写真撮影しなかった理由は本日までお披露目するのを待とうと思ったのでアップしませんでした。
その前に「出世魚だ!」と、気づかれた方に息子さんやお孫さんがおられたら、お薦めしようと思いましたが。。。

残念ながら、現れませんでした。

今年も甲冑や兜の問い合わせは数件頂戴しました。

志向を変えて、このような造形化された『鯉のぼり』は如何でしょうか?


白薩摩は献上品としても有名です。
非常に状態も良く、鯉の表情、全体像は勿論、水を表す飛沫までもが立体化されております。

家宝として息子さんがおられる方は是非、ご検討下さい。

(今日になって紹介するなよ!という声も聞こえて来そうですが、その前に言わずとも鯉のぼりだ!と気づかれるかな。。。と、のんきに構えてしまいました。失礼致しました)

お値段はそこそこします。
ご家族会議の後、お声がけください。

*現在、古伊万里の「鯉の滝登り図」ご用意ございます。こちら必見です。ご来店ください。

*これから出世してやるぞ!という方も、是非、御検討下さいませ。

 

白薩摩(献上品)&鯉の滝登り(出世)と、共に、めでたしグッド
 

author:古美術 希, category:余談, 15:00
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美術品に欠かせない照明

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閉店後の店内で撮影した桜です。
夜桜という言葉があるように日中とは異なる表情を見せる桜。
日没後の月明かりや照明に照らされるものは花だけでなく様々なものの雰囲気を変えます。

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既にご自宅に古美術品をお持ちの方はご存知ですが、例えば床の間に飾った壺や彫刻は日中は太陽の光によって健康的な表情を見せます。しかし日没に近づくと陰影や肌の質感、素材によりグッと渋みを増して鑑賞することが可能です。
これは絵画作品のような平面のものにも同じ現象が現れます。
元々、画商勤務でしたので、絵画作品を照らすライトの明かりや角度に多大な勉強を強いられてきております。
表面とされる角度を目線に入る角度に配置してからライトを当てます。
そのライトも照らす対象物をダイレクトに照らさずに少し上下、左右にずらして照らすことで陰影がハッキリと浮き上がることもしばしばございます。

美術館や博物館の展覧会も同じく搬入時に何度も確認するのが照明の当て方です。
店頭では滅多に質問を受けることはございませんが、美術関係者(展覧会場)からの御相談でよくあるのが照明の色や配置についてが多く、本日、ここに記載させて頂きます。


こちらが日中に撮影した画像です。
背後からは自然光が差し、上からは蛍光灯の明かりとスポットライトで照らされております。
こちらは本来、寺院等の建物の中に配置されていたものですので、できれば演出を考えた場合、和蝋燭の明かり等で照らすことが好ましいのですが、店頭で和蝋燭は危険な為、照明は現代のものを使用する他ございません。
こちらでも十分に迫力は伝わりますが、閉店後に撮影したものをご覧ください。

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上からの照明を落とし、横からスポットライトを照らすことにより彫の繊細な凹凸がより一層際立つかと思います。
全体的にも引き締まった印象を与え、重量感も伝わります。
どちらが好みかは個々人の感性によるところです。
ものの本来の姿を引き出すには明かりの加減も配慮されると面白いです。

美術館、博物館の展示が一番勉強になりますが、日頃、街中を歩いていても目に止まる店頭のディスプレイから照明の勉強は可能です。

対象物となる物の姿、形、素材、質感、絵柄(絵画の場合は構図)をより際立たせるには、この「明暗」を与える側が考慮することにより可能になります。
その部分を少し掘り下げ考えることにより配置する場所と対象物のあり方を「空間」を作ると意識しながら行うと個々人の理想に近づけます。

上に蛍光灯の明かりと記載しましたが、古美術商店で蛍光灯かよ!と笑われる方もおられますが、刀剣を鑑賞する場合は、この蛍光灯と自然光の両方が揃った環境が好ましいので当店では設置しております。

開店当初は明るすぎてダメだと笑われた御老人もおりましたが、細部まできちんとチェックするには照明は必要です。
むしろ暗い場所で御購入される場合は御注意下さい(あらゆるジャンルに言えることです/月明かりで見たら良い女でも日中はわかりませんよ!って具合に違いますからね)

当店のように路面店でしたら自然光も差し込みますので本来の色みはご覧いただけますが建物の中で拝見する場合はスポットライトと自然光に近い蛍光灯、そして古美術商の店主でしたら必ず店内に小型の懐中電灯(オレンジ色ではなく青い明かりの系統)を準備されていると思いますので、両方の元、商品を細部までご確認されることをお勧め致します。

古いものには小さな貫入や欠けも生じている場合が多々ございます。
御購入後に気を揉まれる前に店頭で御確認されるのが一番賢明かと思います。

 

中国の方は自前でライトを持ち込みます。これには本気度が伝わりました。

(ルーブル美術館でイーゼル自前でスケッチする人の本気度に似ていて私は自前のライト&ルーペは歓迎しております)

お客様より良くお話いただくのは、初期伊万里や古伊万里、李朝、九谷と様々なやきものも午前と午後では全く違う表情を見せると御報告を頂きます。
店頭では気がつかなかった肌の色や自然にできた歪みや凹みに影がさすことにより異なる表情を見せると嬉しそうにお話しされる方が多く、御鑑賞を楽しんで頂いていることを嬉しくも感じております。

古美術品、骨董品は所有しないと良さがわからないと言う言葉を買わせたいから言うんだろ?という捻くれた人も世の中には大勢おります。そのような方は所有されるのは辞めた方が良いです。むしろ譲りたくないのが本音です。
余裕や心の豊かさを備えた上で見えてくる部分も多いと感じますので、斜めから見て買うことは避けられた方がお互いのためでもあります。

1つ。これだ!と確信したものを所有されている方は使うことによりわかる良さ。の意味を御自身で感じて御納得されております。
こればかりは言葉で伝えるには限界があるので、言葉以上の感動や感触の確認を求めるにはやはり1つお手元に所有して下さい。
長い歴史を人と人が受け継いだものですので、早々、ケチをつけるようなものではないです。

商品をけなして安く購入しようとするのが昭和のやり方かもしれませんが、当店ではその手には乗りません。
気に入らないのであれば、気にいる物が見つかるまで探された方が宜しいかと思います。

話が外れてきました^^;

上記に女性を例えて挙げましたが、これは最近、最も強く感じておりますので書き足します。
「どこが良いのですか?納得するように説明して下さい」
と、いう若い世代の来店が増えました。
これも時代なのかと思いますが、私が感じるがままにご説明しても伝わるものではありません。
これらのご質問に決着をつける一言を同業者の方が読まれておりましたらお伝え申し上げたく、添えたいと思います。

「この女のどこが良いのか説明してよ、納得したら結婚するよ」
と、申し上げているのと変わりませんよ。

この一言で、その場が全て終了します(男女逆の場合も有)

いわゆる最近の言葉で言う構って欲しいだけの人。
だいたい同じような質問を繰り返されるだけですので大事な美術品を譲るのは避けた方が健全です。

同業の方々にも様々なタイプがおります。
店主として皆さん一生懸命商品を吟味して自腹を叩いて店を経営されております。
当店で相性が悪くても古美術商には様々なタイプの店が存在しますので御近所に古美術商店がございましたら、お気に入りの物が見つかるかもしれません。
その場合は「拝見します」の一言か始まりますと良い物と出逢えます。
古美術品の収集は店と信頼関係が築けることが第一だと思います。

店主としてもお客様の厳しい眼が陳列する美術品に向けられることを求めております。

「ついつい買っちゃうんだよな〜」と収集暦数十年の方が笑顔で壺を抱きしめて宙を仰ぎ何やら模索している瞬間に横にいるだけの存在なのですが、それが嬉しいので有ります。

照明のお話からかけ離れましたが(いつものことですみません)お気に入りの家宝がお手元に納まりましたら、食器以外でも照明により楽しみ方は倍々増することを申し上げて本日のコラムはこれにて失礼致します。

最近、小難しいババアの店と御想像されてからの御来店が多く嬉しい限りです。そのイメージで御足労願います(礼)

author:古美術 希, category:余談, 14:12
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訳あり過ぎ品

かれこれ数年前より。。。(十年経つかも。。。)
古伊万里蛸唐草紋様角皿を仕入れて眠らせてあります。
その訳は。。。
古美術品に詳しい同業者及び、陶芸家、古美術骨董収集家の皆様にこちらをお見せして
「どうしたもんだろか?」と問い、呼びかけ、、、今に至ります。
それはですね。。。
『釉薬が剥がれている』
詳しく申し上げますと、一部が膨れ上がりパリパリ〜ぺろぺろ〜と皮のように剥がれます。
皆さまの答えは
「こんなの見たことない。。。普通の古伊万里じゃないの?なんで?」
数十人にお聞きしましたが、この剥がれっぷりは私も十数年店先にいて、これ以外に出逢いませんでした。
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本日はついに私の手で剥ぎ取ってみました。
奥に見えるのが剥ぐ前。
手前が剥ぐ作業中。
皮(釉薬)にも呉須の紋様は写っております。

もう何年もこの作業をするか、しないかで悩みましたが、年々剥がれの面積が広がったので平成の本日、着手させて頂きました。
見事な剥がれっぷりです。
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作業を続けていると本来の磁器の感触が伝わる肌が出てきました。
よ〜く目を凝らして見ますと。。。
もしかして、これって「ニュウ」が入っているから修理として釉薬っぽいものを塗ったのか?と憶測するような傷跡が出てきました。
それにしては剥がれ落ちたものに呉須の藍が染まっているのは何故?
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高台もペコペコして水ぶくれ状態です。
こんな状況を見たことがございましたら原因を教えて下さい。
釉薬の剥がれを阻止するには素焼きの状態の時に埃や手脂等から肌を守る必要はございますが、、、それにしても、こういう剥がれは見たことがございません。
釉薬が肌の一部を避けるようにして素地が見えるものや灰の付着により虫食いと呼ばれる跡になっているのは、これは古美術品を扱う以上、なくてはならないポイントで傷にはカウントされません。
しかし、こちらはですね。。。
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このように薄く剥がれます。
ありえません。。。
食器ですからガラス質のものが口に入るなんて言語道断。
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ほらほら。。。
見て〜。。。
ピンセットでパリッパリにペロ〜ンと剥がれます。
残念ながら富貴長春の文字部分までは剥がれませんでした。

皿の表面は全て剥がし終えて裏側が残すところ面積として4割。

こちらのような状態のものは今回剥がしたものと、残り1枚ございます。
筆入れ(ペンケース)としてでしたら十分にお使いになれますが、いかがでしょうか^^;?

当店には博物館や美術館勤務の方々も多く御来店頂いております。
資料となるかは解りませんが御興味ございましたらお声がけ下さい。

残り1枚は剥がしたい方へ取っておきます(結構、面白い作業です。。。私みたいな美術バカには)

裏の作業台で地味に作業を行うことも多々ございますが、本日は実に楽しかったです。

で、重要なところは時代はどれぐらいのものか?
これは当店では1600年代を初期伊万里と称し、1700年代を古伊万里とし、1800年代以降を伊万里と一律呼び方を設定してありますが、間違いなく1700年代後期のものと思われます。
磁器の肌の色に呉須の色、形状、紋様、申し分ない古伊万里蛸唐草紋様角皿です。

しかし、残念なことは約300年後に釉が剥がれてきてしまったよ〜というのを陶工にお伝えできたら、その方は更に研究するか、素焼きの状態の管理(素地)を見直したかと思われます。


と、いうことで、訳あり過ぎ品。
こちら、薄皮剥がれた状態で販売しなくて本当に良かったと剥がした後を眺め自画自賛中です。
殆ど、剥がしてしまったので皿としても使用可能な状態まで仕上げましたが、心配な方は御購入は御遠慮ください。

このハサミもカッターもピンセットも高校を受験する時に造形の試験時に購入したもので。。。非常に長い付き合いです^^;
物持ち良すぎ。。。
高校受験を見事合格させてくれて、数十年後には古美術商の店頭で皆さんの御購入品に巻くプチプチをカットしているとは。。。
ピンセットも中学生が高校受験時に厚紙を接着する時に使われていたものが、今では得体の知れぬ仏像の体内とか探っちゃったりしております。
カッター君は刃を変えますが本体とは長いつきあいです。カッター君だけは大学受験時も付き添ってもらってます。

ということで、当店は美術バカが営む店ですので、あまりにもふざけた事をされますと即日速攻出入り禁止になります。

古美術品は勿論ですが、作った方、守り抜いてきた方々に感謝の気持ちと敬意と時に本日のような数百年後に明かされる失敗作も愛情を持って接して頂ける方の御来店を心よりお待ち申し上げます。

このようなコラムを載せますと「見せて〜」とヘラヘラ御来店される方もおりますが、研究材料として拝見して頂ける場合は裏からお出しします。
それ以外の「話のネタに!」程度の軽いノリの御来店は心よりお断り申し上げます。

釉薬の剥がれで驚かれていらっしゃる方がどこかにおられましたら、当店にもこんな状態のものが入ってきてますよ〜!とのお知らせでした。
これは作る段階のミスと称して終わります。


私の作業台です。

12年でこんな状態^^;

古美術商って裏でボケーっとしている訳ではないのですよ。

今はアナログからデジタルまで作業は果てしなく。。。

修理品、刀剣の研ぎはそれぞれにお任せしておりますが私が直せる範囲の修理は行っております。

こちらは店主である私の仕事ですからお客様からは金銭一切受け取りません。

店番だけしていれば良いなんて甘い世界ではないですよ〜。
弟子入り志願の方はお断りしますが手入れのコツは店頭でお伝え致します。

ご不安な点は御購入時に店主にお聞きください。

 

author:古美術 希, category:余談, 17:04
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達磨大師

日本で達磨さんと親しまれる達磨。
倒れても起き上がる姿を縁起物とし各御家庭に浸透しております。
達磨さんの教えを基にお子様にも目を片方ずつ入れる理由をお話になられる方、又、親御さんや御親族から見聞きされた方が殆どかと思います。


達磨大師
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達磨大師の特徴は耳に付けられた輪、そして眼差しは鋭く絵画には髭を生やした威風堂々としたお姿が描かれており、それらを見てすぐに「達磨大師だ!」とわかる程、世代を超えて知られる人物です。

さて、達磨大師はインド人だという説は御存知でしょうか。
生まれた年月日には諸説ございまして断言できませんが当時の国王の王子(第三王子)として生まれインドから中国に渡り没地は中国とされております。

 

国王の子として生まれ、なぜ禅の道へ?

般若多羅尊師というお釈迦様の教え(仏法)を継がれた方が国王から宝珠をもらいます。

その宝珠はとても輝いており美しいもの。

そこに居合わせた国王の息子に尊師は「この宝珠より勝るものはこの世にあるかね?」と問います。

兄は「その宝珠に勝るものはないよ♪」と言いますが、やがて達磨大師となる第三王子は

「物である宝珠より仏陀の知慧の方が勝るね♪」と発言します。

これが般若多羅尊師の弟子入りとなる事柄とされており、菩提達磨と命名され尊師の命ある限りつかえました。


それでは、どのタイミングで日本に影響を与えるかを記載します。
達磨は尊師を亡くした後に中国を目指します。仏法を伝える為とされており、この時、既に60歳。

 

中国、南朝の梁(広州/現在香港&マカオ)の始祖である武帝と会話を交わすのですが、その中に当店にご来店された方の一部の顧客様にはお話させて頂いております「功徳」を問う文言がございます。
武帝の「余が多くの寺院を寄進したその功徳は」の問いに対して『無功徳』と発言し、功徳とはなんぞや?というような会話です。
この功徳を基に当店のあり方も開店当初から思案する所であります。
武帝と達磨の会話の内容は色々な分野から発表されておりますので、そちらを御拝読頂き、どのように解釈をするかは皆様方に委ねたいと思います。
武帝は達磨の言葉(無功徳と発した所を指します)が、その時は身に沁みる心情ではなかったのでしょう。
怪訝された武帝に対し、達磨は武帝の表情から武帝とは御縁がなかったと中国に渡ることを決します。
その後、達磨が中国の寺で9年に渡り座禅を組む姿も有名な美術品として現存しております。

各時代に描かれ、各地域に残っております。この時の絵画に髭の印象を濃く残す訳です(9年座禅してますからね)
禅宗を広げていく中、当時の中国の僧侶に影響を与えます。
大艦禅師慧能という僧侶が禅宗を更に弟子に伝えていくわけですが、この時、日本から僧侶が中国に渡り臨済宗、曹洞宗などの禅宗五家として日本国内で広がります。


臨済宗で最も歴史が長いのは建仁寺(京都)で(1202年)明菴栄西(1141-1215)が日本に伝えたとされております。
続いて東福寺(京都)(1236年)円爾(1202-1280)
そして、ここ神奈川県鎌倉市に
建長寺(1253年)北条時頼が蘭渓道隆(1213-1278)を中国から招き開山。
円覚寺(1282年)無学祖元(1226-1286)を招き同じく鎌倉で始まります。
続いて各地域に禅宗寺が広がります(詳細は臨済宗でお調べください)

曹洞宗で最も歴史が長いのは永平寺(1244年)(福井県)鎌倉時代の武将波多野義重の要請で道元が開きます。
続いて石川県の真言律宗が現在神奈川県の鶴見区にある總持寺の前進となりますが、こちらは明治44年に寺基移転が行われ、石川県の真言律宗は總持寺祖院と称されております。
*總持寺は神奈川県横浜市鶴見区
 

 

達磨大師が丸い形状となったお話は中国の寺で座禅を9年間行った時に手足が腐って無くなってしまったという説が強く言い伝えられておりますが、禅寺では座禅をしているお姿と伝えられております。

 

手足を省いた状態で達磨大師像が現在、皆様のご自宅にある達磨さんとなったとされております。

(ちなみに達磨さんの弟子入りが叶った方も自ら手を切り落としております。歴史は壮絶です)

 

サラリと記載してしまった部分が多く恐縮致します。

 

開業当初から現在に至るまで初心忘るべからず。の想いから達磨大師の功徳を説く文面は店の裏に貼ってあります。

しかし難しいですよね。。。実に。

 

功徳の解釈も各々異なるニュアンスを含まれますと、禅の基礎とも呼べる言葉で伝達していくものではないという思いも膨らみます。

 

「コレが、こ〜だから、こ〜なんです」は、実に危うい言動と心得、なるべく解りやすく店頭では御案内できるよう務めさせて頂きます。

 

 

禅のことば 大本山建長寺 本の中で御案内されております「書/作品」の販売は当店で承っております。

 風間 敞子(かざましょうこ)建長寺にて僧侶に「書」を教えておられる方とお伝え申し上げます。

 

達磨大師の教えを日常、目にされる場所に置かれて初心忘るべからず。でお過ごし下さい。

 

 

追記

 

達磨さんに目を入れるようになった訳

 

子供には=願掛けと教えましょう

大人には=実は江戸時代に商人が打ち出した商戦だった事を店頭でお伝えさせて頂いております。

 

 

author:古美術 希, category:余談, 14:32
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聖徳太子と紹介するのは、もはや古い?(3.20追記有)


聖徳太子像
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店頭で「あら〜聖徳太子の若い頃ね〜」と皆様、有り難く拝見されております。
手元に破損があるものの良い状態で現存しております。
所々、当時の色が見えるのでご来店されましたら是非、背後もご覧ください。
こちらは陶器製で中は空洞となっております。

さて、タイトルを御覧になられて驚かれた方も多いかと思います。
近年、教科書には聖徳太子と記載せずに厩戸王(うまやとおう)と書かれており聖徳太子の実名です。
我々が慣れ親しんだ呼び方は厩戸王の功績をたたえ後の時代に聖徳太子と称されることになるのをご存知の方は少ないと思います。

時代はドンドン塗り替えられているのであります。

厩戸王と記載しますと「ん?誰?」と思われ混乱しますので、以下、聖徳太子で記載させて頂きます。

聖徳太子といえば、お札の人!10人の人の話を一度に聞けた人!と仰る方が殆どで、もう少し詳しく功績をあげられる方は遣隋使の派遣、憲法十七条の制定と仰るでしょう。そして冠位十二階の制定や国史編纂、仏教興隆があげられます。
仏教興隆に関しましては戦に持って行った仏を納める為に四天王寺を建立したというのは有名です。
法隆寺に建立に関しては未だに結果は出ておりません。三経義疏も加えておきます。


このように必ず日本史で学ぶ飛鳥時代の偉人。
それが聖徳太子であり、我々は歴史を疑いもせず各々今に至ると思います。

それが平成になり「こんな偉業は無理でしょ〜」というような観点から研究が進みまして、いよいよ厩戸王と覚える時が来ました。

聖徳太子が生まれたのは馬小屋だというのは御存知ですよね。
その馬小屋で生まれたことから厩戸王と命名されたという説が強いようです。

そうは申し上げても遣隋使の派遣がなければ日本と中国の関係性は異なる道を歩んでいたと思います。

聖徳太子はいなかった!とも言われる時代ですが、この功績は一体誰が成し遂げたのか?疑問が増えてしまいますよね。
厩戸王は実存したとなっておりますから、そこから付随する歴史は多かれ少なかれあると推測されます。

最近、極端に古い時代のコラムを更新しておりますが、まずは、ここから脈々と受け継がれて来た文化、思想、宗教、戦争、などを紐解いていくことが必要かな?と感じます。

聖徳太子も若い頃は戦に励んでいるのです。
その後に四天王をを祀る寺を建立。
この辺りに、また「それは違う」という時代が来るかもしれません。

連日、お伝えしているように古美術品と歴史は断言できない部分が多々あるというのは、このような研究段階を含めてお伝え申し上げます。

この話題は去年?一昨年?話題となりました。
ご存知の方はニュースをしっかりチェックされておられますね。さすがです。

また歴史の更新がございましたら、覆されないような範囲でお伝え致します。



同年追記:「聖徳太子」復活へ 次期指導要領 「厩戸王」表記で混乱

産経新聞 3/20(月) 7:55

 

再び聖徳太子と称する動き有(当店更新3.20/10:30)

 

 

author:古美術 希, category:余談, 17:53
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菅原道真公

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菅原道真公厨子入
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梅の花が開花すると共に、北鎌倉は観光客で賑わい始めております。
梅をこよなく愛した人物として菅原道真公が有名ですが「梅紋」と云えば道真公を祀る天満宮の象徴でもあります。
天神の神紋である梅紋は道真公が詠んだ
「東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ」
遠く離れた京の春を偲んだのはご存知かと思います。

梅紋には2通りあり
*写実的にデザインされたもの(梅花)こちらが菅原家と天満宮にゆかりのある紋
*抽象的にデフォルメされたもの(梅鉢)加賀百万石の前田家の正紋

こちらが天満宮が使う梅紋です。

 

梅紋は国内で使用する紋としては多い方です。

主に京都や九州地方で多く現在も受け継がれております。

本日は「学問の神」と称される道真のお話の中でも少し砕けた内容をお伝えさせて頂きます。
と、いうのも生まれた年や場所につきましては諸説ございまして各地で様々な言い伝えがされており平成の今も不明とされております。

学問の神と呼ばれる道真公ですが元は貴族であり、言い伝えから想像出来る範囲で記しますと刀は太刀を好み、馬がお好きだったようで馬上で太刀をさし梅の花を好み愛でる人物像と申し上げ想像できましたら遠い昔の平安京の背景を添えてください。

武芸の方は今でいう弓道が得意だったようです。

貴族の姿そのものでございますね。

道真公は、その太刀で、カッパを斬ったというお話がありまして、手を伸ばしてくるカッパの手首を斬ったものが天満宮に保管されているというのも有名なお話でございます。

 

 

日本各地を訪れ、その言い伝えも今も各地で伝わっております。

教養が備わる道真公は思いついた瞬間に和歌や漢詩を詠むようで、それらを書き留める役割の方も大変だったと想像すると面白いかもしれません。

ただ、ここで申し上げたいのは勉学に励む姿だけではなく、京都を訪れると遊女との交流も多くあり道真公の子供とされる人数は大凡23人とされております。

子煩悩でも有名ですが道真公は我が子を亡くした経験もしております。

 

菅原道真公の生涯に渡るストーリーは平安時代から現代にまで受け継がれておりますので詳細は省きます。

大まかに現代の言葉を用いてご説明しますと家柄から若き道真公は官職につきます。

その間、交流を深めた方々が亡くなり宇多天皇が醍醐天皇に譲位すると藤原時平と道真が官奏執奏の特権を握ります。

醍醐天皇の時代も道真は昇進を続け大臣にまで昇進します。

しかし、その頃になると敵視する藤原氏は道真の朝廷が権限と財源を集中させて政権のあり方に不満を漏らすようになります。

すると、どの時代も同じような流れになりますが、当時の貴族も安定した今の生活を望み新たな改革を掲げる道真を倦厭するようになります。

 

やがて道真が右大臣。

時平が左大臣となります。

この頃になると廷臣の妬み&嫉妬もピークを迎えます。

しかし、ここまでは上記に記した道真のイメージ像で保たれております。

 

この後ですが、男の嫉妬ほど怖いものはないと思い知らされるようなドロドロ政権争い&策略が行われ(いつの時代も変わらないですの〜。テレビつけると、この当時のまんま!な日本)道真が仕掛けただとか、道真がこう言っていた!等の落とし込める罠を張り詰めて、宇多天皇と醍醐天皇の対立とも言い伝えられる程の政治的なドロドロストーリー展開の後(こういう場合は必ず死者は出ます。いつの時代も)道真は太宰府で謹慎となります(昌泰の変)

この謹慎の頃にいた浄妙院は当時荒れ果てた状態だったようです。

 

京都を離れる時に読んだ詩が一番初めに記載した梅の詩です。

 

なんとも切なくなりますが享年59歳。

 

道真公の残した思想や文化は受け継がれ、作者不明とされているものの中には道真が作者ではないか?と言われるものも少なくはありません。

 

朝廷と道真公のあり方を読み解く上で見えてくる政治家としての生涯。

天満天神として今も尚、太宰府で皆様を見守り続けております。

 

今年も京都の梅は太宰府まで飛んで言ったことでしょう。

 

近年、受験シーズンの神頼み!というイメージですが、菅原道真公の仏が、ここ鎌倉まで至るには長い年月がかかりましたね。

 

この大きさは武士が戦場に持って言った兜仏とは異なり、常に身近に置き祀る念持仏です。

厨子があることから携帯用として持ち運びも可能となっており、これらが作られたのは江戸時代の中期に入ってからと推測されます。

 

その理由を述べますと、江戸中期頃に「菅原伝授手習艦」という歌舞伎の演目が流行りました。

このストーリー展開は道真が失脚した頃を中心に盛り上がります。

きっと、この当時に歌舞伎をご覧になった方で道真公を祀る人が増えたのではないでしょうか?

 

これまでに当店には厨子入の道真公仏が何度か巡ってきました。

そのどれもが状態良く保たれており、次世代に受け継がれることも共に願ったであろう姿が印象的です。

凛とした佇まいの菅原道真公。

 

今の日本に何を思うのでしょうかね。

author:古美術 希, category:余談, 15:31
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日本刀って何からできているの?に答えます

テレビでも海外の方々が「日本刀は他の国の刃物とは全く違うんだよ」と発言するような時代となりました。
それを「どこが違うのですか?」と聞き返すのが日本人という、愚の骨頂の時代ともなりました。

さて、刀剣って鉄でしょ?にお答えします。

「そうです。鉄です」

玉鋼(たまはがね)
一度は耳にされた事もあるかと思います。
和鉄(わてつ)を鋼(はがね)と称します。
和鉄と言うほどですから、これらは日本国内の土地で採取されます。
和があれば洋鉄もあるの?と思われると思います。ございます。
洋鋼と称しますが、これらは簡単にご説明すると、刀を作る上で鉄を叩いている姿をご存知かと思いますが、あの様な叩くことを鍛錬(鍛える)と言います。その鍛えに適さないものが洋鉄で理由は硫黄の化合物を含んでいるのに対し和鉄は鍛えるごとに強度が増す性質を持ちます。
*和鉄=低温でつくられる
*洋鉄=高温でつくられる

では和鉄はどこで採取されるか御存知でしょうか?
和鉄は砂鉄からほんの僅かな量しか取れません。
この砂鉄は浜辺や川にある砂鉄ではなく、山から取れる砂鉄を使用します。

この砂鉄の成分量が最も優れているとされるのが中国地方の山林で赤目砂鉄が取れ、その砂鉄こそが刀剣の材料として最適な成分とし(前のコラムに記載した刀工の系統)最も古い歴史を誇る備前がそれに値することから、現在岡山県と記載すると分かりやすいと思いますが備前の刀剣王国をも呼べる古刀の歴史が確立されたと申し上げましたら御納得が行かれるかと思います。

 

ちなみに余談になりますが、ここ鎌倉も湘南地区の海岸でも現在、学生による玉鋼の研究をしているチームがあると以前、どこかで伺いました。

鎌倉の浜辺で磁石により砂鉄を集めている学生の姿がテレビでも放送されており「ここから刀を作れるか試しています」と、青春ど真中の笑顔が眩しかったです。是非、相州伝頑張ってください!

 

さて、話を戻して、この玉鋼とされる材料は砂鉄から僅かしか取れないことは上記に記載しましたが、この僅かな玉鋼に他の鉄を混ぜて刀を作ります。

この混ぜる配合(分量)は流派により異なる為、一律に○対○と記載はできません。

 

この先は刀を作る工程に入ってしましますので、まずは、ここまでとさせて頂きます。

 

*刀の作り方は古美術商のコラムですので、少々ニュアンスが異なる為、こちらは少し考えてからご案内させて頂きます。

author:古美術 希, category:余談, 18:21
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日本刀 基礎知識/刀剣の歴史を区分

日本刀について

店頭に若い世代の来店が増えております。
これも近年の流行りからくるものだと感じております。
そこで、店頭で1から10まで店主に質問をされる方へ御拝読頂きたく、この度、刀剣の基礎知識編として記載させて頂きます。

本気で学びたい方は著書柴田光男氏による本を1冊所有される事をお勧めさせて頂きます。
店主に聞いて学ぶよりも資料となる基礎を記した本は書店を訪れ御自身と相性の良い本をお選びになられる方が身につきます。

さて、当店でご案内できる範囲でご紹介させて頂きます。

日本刀の歴史は平安時代から記されている専門書が多いようですが古墳時代まで遡ります。
古墳時代から飛鳥、奈良時代と、この時代頃までを上古刀と称します。

 

以下は大きく区分して全て古刀に含まれます。
平安(794-1191)
鎌倉(1192-1330)
南北朝(1331-1392)
室町(足利)(1393-1573)
安土桃山(1574-1602)
慶長元年〜慶長7年(1596-1602)


平安〜鎌倉〜南北朝〜室町〜安土桃山時代の刀剣を古刀と称します。
室町後期から安土桃山時代の刀を末古刀とも言います。

江戸時代 慶長7年までを古刀(末古刀)とし、慶長8年からを新刀と称します。
この時代の栄めに作られた刀をもう少し専門用語を用いてお話しますと、末古刀から新刀に移り変わった時代の出来事は
応仁の乱(1467-77)秀吉公の刀狩令(1588)朝鮮出兵(1592-97)関ヶ原の戦い(1600)大坂の陣(1614-15)を経て、慶長元年を迎えます。
この慶長元年を跨ぎ時代は古刀の特徴を含みつつ新刀として新たな時代に応用した刀剣が作られます。
これらを新古境と称します。
慶長新刀とも言われ特徴は先に述べましたように古刀の特徴をもつものがこれらをさします。

形状のお話は別の機会でご案内したいと思いますが、大きな変化の特徴は刀の反りにあります。
古刀の反りと新刀の反りでは登録証にも記載される「反り」の部分で判断するのもポイントとして記憶してください。

新刀とされる時代は慶長8年〜宝暦13年(1596-1763)

江戸時代の中期後半から明治前期を新々刀
明和元年〜明治9年(1764-1876)

そして、この明治9年3月に廃刀令発令
 

明治10年以降も新々刀と称しますが、昭和初期から第二次世界大戦が終戦するまでの間いに作られたものを昭和刀と称し、それ以降は現代刀として平成の今も鍛治師により作られてはおります。

 

 

 

刀工の系統

 

5つに分かれております。

こちらも覚えておきたいポイントです。

*( )に時代を記載していこうと思いましたが、本を参考にご覧になればわかります。平安〜鎌倉期の一部にだけ最も古いと云う意味合いで添えました。

時代は活躍した主な時代を添え書きしております(○○時代から○○時代まで!ではなく活躍していた時代)

 

山城=平安〜南北朝時代

刀工:三条宗近(平安)五条兼光(平安)五条国永、五条兼永(平安)粟田口国友、綾小路定利、来国俊(鎌倉)来国光(鎌倉)粟田口藤四郎吉光(鎌倉)

特徴:太刀細身で小鋒(こきっさき)地鉄は板目が細かい

 

備前=平安〜鎌倉時代

刀工:友成(平安)正恒(平安)包平(平安)助平(平安)助宗、福岡一文字則宗/信房/吉房/長則(鎌倉)吉岡一文字助吉/助光(鎌倉)片岡一文字則房(鎌倉) 守家、長船光忠/長光/景光/真長/近景(鎌倉)兼光

特徴:反りのある刀の歴史は備前刀が最も古い 地鉄は鍛えられており板目肌 刃文は直刃が多く見られる

 

大和=鎌倉〜南北朝時代

刀工:千手院(鎌倉)当麻国行(鎌倉)龍門延吉、手掻包永(鎌倉)尻懸則長(鎌倉)保昌貞宗、保昌貞吉(鎌倉)

特徴:鎬の幅が広く刃文は直刃

 

相州=鎌倉〜室町時代

刀工:新藤五国光(鎌倉)行光(鎌倉)正宗(鎌倉)秋広、広光、綱広、正宏、広正

特徴:身幅が細く小鋒も有り 鳥居反り 刃文は様々

 

美濃=鎌倉〜室町時代

刀工:志津兼氏(鎌倉)金重、金友、為継、善定兼吉、兼常、和泉守兼定、孫六兼元

特徴:地鉄は板目肌で反りは浅い

 

 

以上が刀剣を鑑賞していく上での知っておきたい区分です。

 

刀工の系統で上記にはございませんが薩摩の波平行安(なみのひらゆきやす)は平安時代から幕末まで続きます。

 

 

刀剣 各部位の名称←クリックで古美術希のホームページが開きます。

 

こちらは以前、古美術希ホームページ上に記載した記事にございます。

 

美術刀剣の商談中は、各部位の名称でご説明する事が殆どです。

スムーズなお取引ができるよう御確認の上、ご来店ください。

 

*書店を訪れてシッカリと表として説明してあるものをお選び頂くと分かりやすく、刀剣要覧も1冊あると便利です。

author:古美術 希, category:余談, 15:54
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漆器の歴史に触れてみます 後編(江戸時代〜大正時代)

縄文〜鎌倉時代←前編はこちら

南北朝〜安土桃山時代←中編はこちら

 

さて、時代を分けてお伝えしており、ようやく後編となりました。

江戸時代(1603〜1867年)

戦国の時代を経て、それまで京都(大阪)が握っていた政権を江戸が奪い取り、この後、長期に渡る江戸、徳川時代の幕開けとなります。

 

文化を軸にお話を進めさせて頂いております。

そこはご了承ください。

 

それまで日本に流入する海外の文化は中国に限られたものでしたが、江戸時代に入りますと長崎県を通じてヨーロッパから西洋文化が日本国内に入って来るようになります。

その文化は、それまで日本の中心として栄えた京都ではなく江戸で開花します。

 

この頃、狩野派は脈々と世代を超えて受け継がれており、狩野派が基礎となる絵画の歴史だけではなく様々な工芸品にも影響を与えるようになります。

この時代に画人を志すものは町狩野(まちがのう)と呼ばれ町人相手に絵を教えるような職を持つ者もおりました。

 

江戸時代の狩野派を受け継いだ画人をそれぞれご紹介します。

 

久隅守景(生没年不明)探幽の弟子(農村生活を描き当時の生活をそのまま描いた 代表作は夕顔棚納涼図屏風)

 

英一蝶(1652-1724)探幽の弟の安信の弟子(当時の都会風俗文化を描写した 代表作は吉原風俗図巻や雨宿り図屏風)

 

しかし、上記記載の両者は狩野派から破門されております。

( )の中に記載したものが破門の大きな理由

 

この破門理由から当時の狩野派の地位確立が確かなものとなっていたことが伺えます。

 

狩野派と並行して社会的権威を持つ画派のご紹介が必要ですので加えます。

 

*土佐派 光吉、光則、光起(1617-91)この代に戦国時代の光元の死後中絶していた宮廷の絵所預職に復帰

 

*住吉派 初代如慶(1599-1670)細密画法を継承/息子の具慶(1631-1705)父の画法を主とし時代感覚を盛り込んだ

 

そして海外でも人気の高い

琳派

土佐派、住吉派とは少々質が異なります。

 

代表する画人は

 

尾形光琳(1658-1716)狩野派を学び俵屋宗達の作品に刺激を受けて代表作が完成

 

(俵屋宗達 松島図屏風、風神雷神図屏風←光琳が衝撃を受ける→尾形光琳 燕子花図屏風、紅白梅図屏風 完成)

 

尾形乾山(1663-1743)光琳の弟 工芸作品も残している

 

この後、光琳、宗達から画人として琳派を受け継ぐ画人によって

 

酒井抱一(1761-1828)狩野派を学び沈南びん風、浮世絵風を描いた後琳派に傾倒、そして代表作夏秋草図屏風完成

 

抱一の後もその画風は受け継がれております。

 

だいぶ人物名を絞り込み記載しましたが、大まかに江戸を彩る画人の代表、核とも呼べる人物は以上です。

(尾形光琳による八橋蒔絵硯箱を東京国立博物館で御覧いただけます)

 

江戸時代の漆工芸作品は上記に記載した尾形乾山による作品が美術館の目玉として展示されることが多く、有名な作品も琳派と共に皆様も展覧会でご覧になられたことがあるかと思います。

 

江戸時代に入りますと、磁器が日本国内に齎され伊万里や九谷が急激に江戸の経済を潤します。

 

ここで、ようやく磁器による器の歴史が始まるのですが、その時代の漆に携わる人はどのような時代の流れの中にいたか、お話させて頂きます。

 

「磁器による器の浸透に負けず劣らずの勢い」

 

江戸時代に入りますと各藩主が漆工芸品を保護するようになり、藩主お抱えの塗師が出現します。

刀の鞘塗師、武具の塗装に従事しており、その材料となる漆を確保する為に藩主ごとに植林を奨励することにより生産量が格段と上がり、この時代に日本国内各地に漆器が浸透します。

 

そこで現代、我々が目にする産地による特徴を活かした塗物が誕生しました。

 

漆器 地図 ←クリックで日本漆器地図が開きます(古美術希コラム頁参照)

 

ようやく、この辺りから当店が店頭で皆様にご覧いただいております漆工芸品が生み出されるのですが、これよりも古いものをお探しの場合は店主にお声がけください。江戸時代よりも古い漆工芸品が入荷していても店頭に陳列することは少ないので御購入意思のある方のみご覧頂ける商品も少なくはありません。

 

江戸時代には漆で様々な贅沢品が生み出されました。

その代表的なものは印籠、櫛や簪、鼈甲や象牙に蒔絵を施したような材料が今では禁じられているものも多くございます。

 

*蒔絵香合←クリックで商品ページが開きます(古美術希)

 

画像は当店でご案内中の金銀蒔絵香合で江戸時代のものです。

中と裏は総梨地の豪華な作りとなっております。

 

これも当時の人間の意識が戦から文化へと移り変わることにより生み出された美術品だと考えております。

 

繊細な描写による工芸品が見られるようになると全国でも競い合う内容が戦国時代とは異なる意識の変化がもたらされた結果、このようなものが完成したのでしょう。

 

こちらこそ、時代が数百年上下しても、今を生きる人の目を捉えて離さない作かと思います。

 

金と銀を使うことにより平面に奥行きが表現され、銀は時代を経ると鈍い黒へと変色します。

そこまでも計算されて作られたであろう美術品は時代を乗り越え今に至り、現代では平成の輝きを放ちます。

 

江戸時代に作られた漆による美術品は光り輝く中でも金の落ち着き、銀の渋み、黒の艶の変化、朱の落ち着いた雰囲気、螺鈿の変わらぬ輝きが所々味わえます。

 

手に取りジックリと御覧になれるのも古美術商という限られた空間が殆どですので、この時代のものが店頭にございましたら、是非、店主にお声がけし、拝見させていただく事をお勧め致します。

店舗により白い手袋の装着が決まりとなっている店も多くございます。

 

漆工芸品は素手で触れることはなるべく避けたい所ですが、残念ながら当店のお客様の一部では素手で触れないことをクレームとして告げる方もおり、迷いましたが、ご購入意思のある方のみ直接、手に触れる事を承諾しております。

 

この辺りは知識と常識があるか、そうでないかが試される部分ですので、古美術商を巡る中で最もお気遣い頂けますようお願い申し上げます。

 

そして時代は明治に移ります。

 

明治維新を皮切りに社会はガラリと変わります。

それまで上記に記載した謂わば職人たちは次々と職を失うこととなります。

 

画人もその煽りは強く受けており江戸末期に狩野派で修行をしていた狩野芳崖、橋下雅邦がこの頃に時代の移り変わりを受けつつも明治画壇と称し活躍し後にまで語り継がれます。

 

漆工芸品の歴史の波があるのであれば、この「明治」に大きな波が到来します。

 

生活様式がそれまでの江戸期とはガラリと変化すると漆器の需要が極端に減り職を失い転職する漆職人が溢れました。

これを挽回するには。。。と明治政府が出した策は「博覧会」に出展することで日本の工芸を世界に広めるきっかけを生み出しました。

 

諸説ございましてイメージダウンだったと反対の意見を述べる方もおりますが、日本のイメージを海外に広げたキッカケを打ち出したことは、それまで江戸時代に培われてきた技術を惜しげなく作品に費やせた時代をして美術史にはなくてはならない過渡期だったと思います。

 

漆器のことを「ジャパン」と称することをご存知の方は古美術品の収集家でありましたら必ず、どこかで耳にされた事があるかと思います。

 

時代を戻し、桃山時代にも日本から漆器がヨーロッパに大量に渡っております。

この時代はお隣、中国からもヨーロッパに向けて大量の漆器が運ばれております。

輸出するからには、その納める土地に見合うものを輸出するのがどの時代も商人として考えるところでございますが、この時代(桃山時代)は主にキリスト教にちなんだ漆器を輸出しております。

桃山時代ですので、都は京都。

京都からポルトガル、スペイン、オランダに輸出されており、その記実は今も残されているようです。

 

そして時代が明治になり、またしても日本国内からヨーロッパに向けて漆器を発信する訳ですが、この時代になりますと展覧会という発表の場を用いて日本の技術を伝えます。

この頃には「ジャパン」と言えば日本の漆工芸品を意味する言葉となるのですが、中国も同じく輸出をしていた歴史はあるものの、きっとヨーロッパの方々は日本産の漆器に目を奪われたと考えますと日本美術の誇りに感じます。

 

 

*蒔絵小箱←クリックで商品ページが開きます(古美術希)

 

画像は店頭に陳列している明治時代の蒔絵の小箱です。

この時代のモダンな絵柄は西洋文化に刺激を受けていることが見受けられます。

このような幾何学文様が取り入れられた作のものは、江戸時代の着物の文化にも通じる遊び心から、この後にやってくる時代へも影響は大きく段々と今現在の暮らしに近付いているような足音も聞こえてきそうな文様です。

 

余談になりますが、当店は着物(古布)の取り扱いはございません。

しかし、これは歴史を振り返ると文様を学ぶ上で何故、関東と関西では異なる文化が根付いたのかが解るので添えさせて頂きます。

 

江戸時代に入りますと京都を代表する友禅のような華やかな柄の着物が江戸の人達にとっては野暮ったいと不評だった歴史がございます。関東では無地が粋でお洒落とされており、その文化は言葉では伝わってこそおりませんが、、、近年も納得がいく話だと感じております。

確かに、ここ鎌倉は武士の地として有名ですが、極端に華やかな着物をお召しになられている方は今流行りの観光の合間に着るレンタル着物が多く感じます。

茶会の席に呼ばれますと、その時季に合わせた無地の品の良い控えめな色彩の着物が鎌倉の街を優雅に彩ります。

その奥ゆかしさに鎌倉の風景はとても似合います。

 

さて、着物に触れてからの大正期となりますが、大正ロマンと称すイメージが根強く浸透しております。

この時代のものが極端に好みだと仰る方も多く、大正時代は独自の文化で生活を彩ります。

 

しかし、この頃から戦争という時代を意識した日本国の歴史上で暗黙の時代に突入していく訳ですが、この後に訪れる戦争と美術に対しては、これまでとは違う目線でお話をさせて頂いた方がよろしいかと思いますので、本日は、大正期に差し掛かるところで最後とさせて頂きます。

 

戦争と美術

 

日本国は戦争モードに突入しますと、それまで贅沢品とされていたものへの関心をシャットアウトせざるおえない時代となります。

この時代を生きた方々の想いは、我々は聞くことが出来る年齢で生まれました。

戦争と美術の関係を書いた本はございます。

その時代の画家や工芸家がどのような道を辿ったかが明確に記された本を是非、1冊読んでみてください。

 

この時代背景にある美術の存在。

真剣に向き合うことにより、当店を訪れる時の心構えが少し律したものに変化すると思います。

 

*扇面香合←クリックで商品ページが開きます(古美術希)

 

こちらは戦後、日本国が敗戦国となり、やがて高度成長期を迎え美術という言葉の中にも様々な解釈が生まれた頃に作られた漆工芸品です。

現代美術のお話をする上で、こちらの工芸作品へも一度、目を向けられますと様々な発見があると思います。

 

さて、そろそろ、皆様が生まれた時代ですかね。

皆様が生まれてからの美術。

そして今、向かっている美術の先々。

 

個人的には面白い方向性を向いていると感じておりますが、それらを面白いと捉えられる方々が増えて頂けますことを願います。

 

 

長々とお付き合い頂きまして有難うございました。

 

 

漆器に基づき日本の歴史でした。   古美術 希 店主

 

 

*漆器日本地図はこちら←古美術希ホームページが開きます。

author:古美術 希, category:余談, 17:08
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漆器の歴史に触れてみます 中編(南北朝時代〜安土桃山時代)

縄文時代〜鎌倉時代

の続きです。

漆器に基づき歴史を振り返るのですが、鎌倉時代の武家政権が根付くと共に鎌倉文化とされる宗教が基を示す思想が急激に深まりを見せます。これにより建築にも様々な変化が見られるようになるのですが、今回は漆を題材に記する事に要点を絞ります。
漆器は下級武士の生活にも用いられ日常使われていたことが絵巻物から当時の生活を伺えます。
この頃は飯碗、汁物椀は共に漆器を用いた生活だったと推測されます。

そして時代は建武の新政(1334年)から南北朝時代を迎える頃には絵画や彫刻ほどの進化は目立って見られないのですが金工を元とする装飾の技術の中に蒔絵(研出)や螺鈿、銀を用いた技法を施した工芸は今に伝わるものが現存しております。

ここからが今回のタイトルに記載した時代

南北朝合一(1392年)〜足利幕府が滅びる(1573年)までを室町時代とします。
応仁の乱が室町時の転機となり美術史には雪舟が登場すると記載するとわかりやすいかもしれませんね。

この時代に、能、花(華道)、茶(茶道)が中国より伝わり漆工芸では蒔絵大和絵図箱や能面などが現在も保存されております。
皆様、大和絵や唐物、唐絵と行った言葉を耳にされたことはあると思いますが、これは、この時代に中国文化が日本に伝わると同時に生まれた呼び方で、鎌倉時代に伝来した禅宗をきっかけに数多くの中国美術工芸品が輸入された頃に「唐物」と称し大変珍しい工芸品として室町時代にも「唐物」という呼び方は引き継がれ、ただ、この頃になりますと、茶道具や水墨画の中には、その中に描かれているものを唐絵、大和絵と称するようになり、主に「唐絵」は輸入された中国画に似たものを称するようになります。

唐物の漆工芸技術は、その当時、沈金、堆朱、ちつ紅、そう金、等と呼び方を変えて日本でも知られる技法として今に至ります。

(この時代の刀剣も面白いですよ。武具にも是非目を向けて見てください)

さて、美術史を語る上で最も重要な時代へと差し掛かります。

安土桃山時代(1574〜1602年)

美術史では総じて桃山時代と称しております。
しかし、今回はわかりやすく戦国時代、天下人、織田信長、豊臣秀吉の政権時代を象徴する呼び方で記載させて頂きます。

この激動の戦国時代に生まれた美術品の数々は世界中の古美術愛好家が注目する絢爛豪華な技術に花が咲いた日本で最も
雅な造形の基盤とも言える古美術品が存在します。

贅(ぜい)この一文字に全てを込めて送ります。

この時代で最も注目されるのは城の建築に変化が見られることが挙げられ、それと同時に障壁画に描かれる天下人御用絵師の存在。

 

狩野永徳は桃山時代を代表する絵師で唐獅子図屏風を描いた人物と申せば、日本人であれば頭に過ぎるのではないでしょうか。

安土桃山時代は南北朝時代さながらの急激な時代の変化を迎え、その影響は美術史が語るには残された文化財を見れば納得が行かれるかと思います。

城郭、殿舎に当時の絵師ができる限りの贅を尽くした筆跡は現代の人も惹きつけ、絵師にも高弟三楽(1559-1635)その長男光信(1561/65−1608)の狩野派による繊細で優美な画風は受け継がれ、永徳の孫探幽(1602-74)は弟尚信(1607-50)、安信(1613-85)は徳川時代の御用絵師と地位を確率して行きます。

 

モチーフも力強いものが多く描かれるようになったのが桃山時代の特徴のように感じます。

その勢いはどこまで続くのか。

当時の人の心情は計り知れないものがありますね。

 

この頃、漆は古来より定着している漆器の生産は継続されておりますが、絢爛豪華な金蒔絵の漆器を使えた方(目にした方)は一般人にはいなかったでしょう。

余談になりますが、まだ、この時代には陶器は存在していても磁器の伝来は、まだ、この後の徳川時代になる頃となります。

 

時代が動き戦乱の時を潜り抜けた時、桃山時代の終わりが見えてきます。

 

中国から伝わった技法を用いて厨子の扉に蒔絵を施すような作風も豪華に作られており、平蒔絵と称する技法はすでにこの時代には定着しております。

 

代表的なものは北政所が夫、秀吉の為に創建した高台寺にある霊屋内陣の須弥壇(しゅみだん)厨子に施されているのは平蒔絵による秋草をモチーフにした華麗な蒔絵が、当時の漆の技法の最高潮かと思われます。

 

又、甲冑(武具)にも所々、漆の技術が見られますのでご覧になる機会がございましたら是非、漆にも注目してみてください。

 

 

 

さて、ほとんど江戸に差し掛かっている部分もありますが、ここからが徳川の時代。

 

 

徳川御用絵師といえば、永徳の孫探幽(1602-74)は弟尚信(1607-50)、安信(1613-85)と、その地位は確実なものとなり狩野派とされる繊細で豪華な技術も受け継がれてきております(この部分は上記重複となり次回の予告として添えさせて頂きます)

 

 

店主、力尽きました。。。

この続きは、今しばらくお待ちください。

 

*(縄文〜鎌倉時代はこちらをクリックしてご覧ください)

 

*(江戸時代〜大正時代はこちらをクリックしてご覧ください)

 

 

*漆器日本地図はこちら←古美術希ホームページが開きます。

author:古美術 希, category:余談, 17:25
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